勉強会1:『ヒトラーとナチ・ドイツ』石田勇治著

この度、大学時代の恩師との勉強会を定期的に実施することとなりました。このブログは、記念すべき第一回の勉強会のレジュメを掲載し、社会にて奮闘しているゼミ生の問題関心に基づいた主張を世に投げかけるものです。政治・経済・哲学に関わる様々な問題を取り上げ、人間とは何か、社会とは何かについて考察を深めて参ります。

 

さて、今回の勉強会で取り上げた書籍はタイトルにもありますように『ヒトラーとナチ・ドイツ』(石田勇治著、講談社現代新書)です。文明国ドイツになぜヒトラーのような独裁政権が誕生したのか、その背景を考える一冊です。以下のレジュメでは、兄弟子にあたる方がまとめられた書籍の要約と所感を掲載します。ぜひご一読下さい。

 

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ヒトラーとナチ・ドイツ

講談社現代新書

石田勇治 著                                                                                                       馬場智也

 

一、本書概要

本書はドイツにおいてナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党首アドルフ・ヒトラーが政権を担っていた1933年から1945年、いわゆるナチ時代及びそこに至るまでの過程を取り上げたものである。

筆者の石田勇治は東京大学大学院教授、近現代ドイツの研究者であり、本書以外にも『ナチスの「手口」と緊急事態条項』(集英社新書、2017年)や『20世紀ドイツ史』(白水社、2005年)などの著書があり、メディアでもヒトラーホロコーストに関する解説として出演している。

本書の特徴はヒトラーとナチズム、ホロコーストに関する最新の歴史研究の知見をコンパクトにまとめている点にある。そもそも、そうした研究は冷戦終結後の1990年代になって一気に進展したという背景がある。それに関して本書では「旧ソ連・東欧圏の文書館資料が閲覧可能となり、長らく不明とされていた歴史の細部に光があてられるようになったこと、またそれまで自国の負の歴史の解明に必ずしも熱心でなかったドイツの歴史学が、研究者の世代交代も相俟って、若手を中心に積極的に取り組むようなったことに負っている」[1]とある。

このように、第一次世界大戦終戦から100年を迎える現在、ドイツ・ナチ時代の研究の成果を読む事は、今の時代を見る視点を養う事でもあると思う。ナチ時代に本当に何が起きたのか。それを考察する現代的な意味は大きい。

 

二、本書の内容整理

本書の構成

本書は全7章で構成される。1~2章はヒトラーの登場からナチ党の台頭、1910年代からナチ党がその得票率のピークを迎える1932年7月の国会選挙までを描いている。3~4章ではヒトラーが首相に任命され、ヒトラー政権が成立した1933年からのその権力基盤が確固とした1934年末にかけての1年半に起きた社会の「ナチ化」の過程を取り上げる。5~7章では1933年から1945年までの「ナチ時代」を扱う。1939年の第二次世界大戦勃発までを前半とし、その評価の難しい「平時」における人々の捉え方、つまり「比較的良い時代だった」という声を雇用の安定と国民統合という観点から捉える。後半、つまり戦時において起きた国家的メガ犯罪と筆者が表現する「ホロコースト」に帰着した要因を、レイシズム反ユダヤ主義、優生思想の発展とともに検討する。

以下では、本書を大きく4つに分けて整理する。

1、第一章~第二章 ヒトラーの登場~ナチ党が国政政党になるまで

1933年1月30日、アドルフ・ヒトラー43歳の時、ヴァイマル共和国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクによって首相に任命された。しかし、それまでのヒトラーの半生に何か目立った特徴は無かった[2]。そのヒトラーの生い立ちとナチ党への参加、指導者となるまでの過程が1章の主要部分である。

ヒトラーは1889年、現在のオーストリアのブラウナウに生れた。彼は実学を志せと父に言われるが、父の死をきっかけにもともとの夢である芸術家になる事を目指す。1907年ウィーンの国立芸術アカデミー美術学校の入学試験を受験した。結果は不合格で、その直後母が乳がんで亡くなった。翌年の受験にも失敗したアドルフはウィーンで「孤独な浮き草のような生活を送ることに」[3]なる。ハプスブルグ帝国の兵役を逃れるため、ドイツ人アイディンティティを強く持つアドルフはミュンヒェン[4]に移住する。

1914年、ヒトラー25歳の時、第一次世界大戦勃発の報に接し、志願兵として従軍する。その際、ヒトラーは過酷な戦場において「民族共同体」[5]という概念の原風景を経験したとされる。しかし、実際は比較的安全な後方勤務に就いていたという。

1919年、ヒトラー30歳の時転機が訪れる。そのきっかけは敗戦によって解体された軍の再構築であった。敗戦の原因を軍部内の反戦・革命運動によるものだと考えていた軍部は、愛国主義民族主義的な政治・思想教育をベルリンにおいて導入した。その責任者カール・マイヤーヒトラーの「弁論の才能を発掘し、彼を『第一級の国民的演説家』に育て上げた」[6]ヒトラーは「教育将校」と呼ばれ、反ユダヤ主義愛国主義教育、新聞・雑誌などのメディア対策など宣伝・諜報部の任務を行った[7]。同年、「視察・調査を目的にナチ党の前身であるドイツ労働者党の集会に赴く」[8]。ドイツ労働者党は発足したばかりの弱小政党で、党員は50名ほどしかおらず、軍とのパイプ[9]を持っていたヒトラーはその党勢の拡大において重要な役割を果たし有力メンバーの一人となっていく。1920年、公開集会を開きその党名を「国家社会主義ドイツ労働者党:略称NSDAP、ナチ党」とした。2000人の聴衆が詰めかけたホーフブロイハウス・ビアホールで党綱領[10]も発表された。ここまでがヒトラーの登場とナチ党が歴史の表舞台に出てくるところである。その後、ヒトラーはナチ党の第一委員長となり、党の実権を握った。ヒトラーもナチ党もその台頭にはドイツ帝国時代の旧軍の影響力が大きいように思える。

例えば、ナチ党の実行部隊となった警備隊は後に武装組織である突撃隊となる。その突撃隊の武装化に一役買ったのがエルンストレームだ。彼は軍人の立場を利用し、軍の物資を利用していた[11]

ナチ党にとっても当時のドイツ保守派にとっても重要な事件が起こる。ミュンヒェン一揆だ。1923年、フランス・ベルギー連合軍によるドイツ、ルール地帯の占領が行われた。それは賠償支払いに応じないドイツへの現物取り立てだった。これに対し、時の首相ヴィルヘルム・クーノは占領軍への協力を拒否するよう命じ、麻痺した経済に対して紙幣の増刷で乗り切ろうとしたため、空前のインフレが起きた。こうした混乱の中、ヴァイマル共和国は多くの国民の信頼を失った。その頃、地元バイエルンにて反ヴァイマル共和国を掲げて州首相となったグスタフ・フォン・カールはクーデターを目論んでいた。しかし、軍最高司令官が容易に動かない事を察知し、クーデターの先送りを決めた。このカールを巻き込み、武装蜂起を起こしたのがヒトラーであり、ミュンヒェン一揆であった。1923年11月8日から9日にかけて武装した突撃隊600人とともにヒトラーバイエルン州閣僚を人質にとった、一方で別同隊のレームは第七管区軍司令部を占拠した。しかし軍司令部に同意するものは少なく、カールは総監としてクーデターの鎮圧、関係者の逮捕を命じた。結果、クーデターは失敗し、ナチ党はドイツ全土での活動を禁じられる事となった。

2章では、ナチ党の復活と国政への勢力拡大要因が示される。

逮捕されたヒトラーミュンヒェン一揆に関する裁判に出廷する。その裁判はヒトラーにとって有利な条件[12]だったこともあり、ヒトラーはその裁判を彼得意の演説の舞台とし、プロパガンダ戦略の一環として利用したと言える。さらにその裁判の告発記であり、彼の思想の独白でもある『我が闘争』は後に1千万部以上を売上げた[13]。その本はヒトラー自身とナチ党にとって貴重な収入源ともなる。ヒトラーはナチ党の再建にあたって党の再建のために、以下の三つの事を検討した。①それまでのクーデターをあきらめ合法路線を目指す事、つまり選挙で勝つという事[14]、②ヒトラーが再び指導権を握るという事[15]、③ナチ党単独での立場を確保する事[16]、であった。

これらを達成してナチ党は再建されていく。ナチ党は全国での支持を伸ばすためにドイツ政治の表舞台へ登場する。プロイセン州、州都ベルリンでは社会民主党共産党などの勢力が強く、ナチ党は入り込めなかった。その大管区長を任されたゲッべルスは騒乱[17]を引き起こし、週刊誌を刊行してまで世間の注目を集めるようにした。それでも最初の国政選挙[18]では得票率2.26%で12名のナチ党員が国会議員となっただけだった。ナチ党は全国政党になるに当たり、弁士の養成[19]、農村への進出[20]を足がかかりに勢力を伸ばした。本書111頁には国政選挙でのナチ党の得票率の推移があるが、1932年7月、得票率37.3%を取得し国会第一党となった。

 

2、第三~四章 ヒトラー政権の成立~ナチ体制の確立

 1933年1月30日、ヒトラー政権が誕生する。しかし、下降局面に入ったナチ党党首がなぜヒンデンブルグによって指名されたのか、第3章ではその部分を取り上げる。

 党勢が衰退した要因は徐々に回復してきた経済や浮動票をつかみ損ねたこと等いくつかある[21]が、何よりもヒトラーがそのカリスマ性の限界に達したからだ。彼はまだ何の業績も残していなかった。しかし、ヒトラー政権が誕生した。それはヒンデンブルグ大統領の指名があったからだ。ヒンデンブルグはその当時85歳、プロイセンの土地貴族の系譜をひく保守派の大物で、ドイツ統一戦争、第一次世界大戦に従事し国民に高い人気を誇る名将[22]であり、第二代ヴァイマル共和国大統領であった。

 国会では多数派をとっていないヒトラーを首相に据えたのは、それに先立つ3名の首相がそうだったからだ。議会に基盤を持たない政権に対してヒンデンブルグは「大統領緊急令」[23]を乱発した。一方で国会はそれを止めると解散になってしまう。そのため、それを乱発されると国会がマヒ状態[24]になり、議会政治は空洞化した。そんな状態で保守勢力[25]は、議会制民主主義を終わらせ、共産党等の急進左派勢力を抑え、再軍備の道をつけるという役割をヒトラーに託す。それが済めば「放り出せばよい」[26]と考えていた。その結果、1933年1月30日、ヒトラーは首相となった。

第4章では急速に進んだ「ナチ体制」の構築を取り上げる。それは約1年半の出来事だった。ヒトラーが首相と大統領の地位を併せ持つ絶対の指導者=総統となるまでの部分だ。

当初、政権の主要閣僚ポストは非ナチ派の人々で占められていた。ヒトラー就任時の演説では、第一次世界大戦の英雄ヒンデンブルグの命を受け、ドイツを「救済」する仕事に取り掛かると述べた[27]。一方で陸海軍司令官に対する秘密演説[28]も行っている、そこでは内政における議会制民主主義の破棄、外交における反ヴェルサイユ体制と入植政策、そして再軍備について語っている。1933年3月5日の国政選挙では、政権の座にあるナチ党は左翼陣営の対立[29]をしり目に、各種の弾圧[30]を加え、ラジオ、航空機を駆使した選挙戦を行い43%の得票率を獲得する。連立与党の国家人民党と合わせると国会の過半数を得た。その国会で可決されたのが授権法であった。授権法とは、これまでにも何度かその範囲と有効期間を限ってヴァイマル共和国期に制定されていた。この法は「全権委任法」[31]とも呼ばれどんな法律の制定も可能である法律だ。その成立には国会議員総数の3分の2以上が出席し、その3分の2以上が賛成することが満たされねばならなかった。政府は議院運営規則の変更によって社会民主党と中央党が揃って反対しても可決成立を阻止できない状況[32]を作りだし、法案を通した。授権法はただちに効力を発揮し、地方の州政府を政府の統制下に置いた[33]。諸政党、労働組合が解体[34]され、ナチ党に一元化されていった。一方、人々の態度はそれを容認するものだった[35]。こうしてヒトラー政権が発足してから1年が経つ頃には授権法の成立とナチ党への権力の集中が計られたが、中間層や保守派からの批判が噴出するようになった。それは経済情勢の改善が芳しくない事、ナチ党の私設軍隊である突撃隊の横柄なふるまい[36]が原因であった。そこでヒトラーは突撃隊の長であるレームを粛清し、突撃隊の存在を嫌がる軍部との信頼関係を構築しようと試みた。この粛清が「レーム事件」、あるいは「長いナイフの夜」[37]と呼ばれる事件だ。この事件で実行部隊となったのが親衛隊であり、犠牲者は約100名に上った。この事件でヒトラーを「放り出せばよい」と考えていた保守勢力のシュトラッサーやミュンヒェン一揆の際に裏切ったカールも含まれている。

こうして政府は権力内の不安要素の排除に成功し、突撃隊を快く思わない軍、保守派、市民層から支持と評価を得る。

1934年8月2日、ヒンデンブルグ大統領が亡くなった。同時にヒトラーが「総統」となった。本来必要な選挙は「ドイツ国元首に関する法」[38]によって無くなり、大統領の役職と首相の役職を統一した権限がヒンデンブルグの逝去をもって移譲されることとなっていた。その日、ドイツ史上最大の権力を持つ独裁者が誕生した。

 

3、第五章 ナチ体制下の内政と外交

 第5章では、「ナチ時代」と呼ばれる1934年~1945年の内、第二次世界大戦までの1933年~1939年までの「平時」における人々の捉え方を取り上げる。

 本書では「ナチ時代」の前半と呼ばれるこの時代の内政と外交が人々に評価されていた[39]と言っている。内政においては失業対策が行われた。それは勤労奉仕、女子労働力の削減、徴兵制度の導入など統計上の対策[40]とも言える含みを持つものだった。例えば、女子就労者を家庭に戻し、結婚奨励貸付金制度を導入した。こうして女子労働者は登録失業者名簿から削減し、離職した後は男子の失業者が埋めることになる[41]。こうして失業対策は統計上の成果を上げ、ヒトラーの偉業の一つとして宣伝された。

ヒトラーには国民を統合するという目標があった。それは「フォルクスゲマインシャフト[42]と呼ばれる概念を中心とするものであった、民族共同体と訳されるこの概念はドイツ民族およびドイツ国民が一つになり、ユダヤ人やマルクス主義者を排除し新たな共同体を創出しようというものだった。そのために本書では三つのかたちが取り上げられている。一つはナチ党大会[43]、もう一つはアウトバーンの建設[44]、最後に歓喜力行団と冬季救援事業[45]だ。例えば、アウトバーンは失業対策の一環として自動車専用の高速道ネットワークの構築を掲げて始まった。1933年9月に着工し、労働者を一人でも多く雇用するために人力を優先した。しかし、国民の自動車保有台数も少なく利用度は少なかった、そのため1943年夏には自転車の通行が許されたほどだ。そもそもこの自動車専用道路の構想自体は20世紀初頭にされており、ヒトラーが首相になる前年にケルン―ボルン間が開通されたばかりだった。しかし、失業対策としての効果は宣伝されたほど大きくなかった。むしろアウトバーンの建設を利用したプロパガンダ戦略によって、失業撲滅に取り組むヒトラー、国民一丸となって建設をするフォルクスゲマインシャフトのイメージを宣伝することだった。こうして「偉業」を達成しながら、国民を統合していった。

一方、対外政策はどうだったのだろうか。ヴェルサイユ体制を乗り越え、英仏と同等の地位を得ることはドイツ国民のだれもが共有していただろう[46]。当初、ヒトラーは外務省のエリート官僚と歩調を合わせ、平和主義者の顔をしていた[47]。しかし、軍備増強のための国際連盟脱退、ポーランドとの不可侵条約など周辺国の不信感を誘った。このように国際的に孤立した状況から、ザール地方のドイツへの帰属が決まり[48]、イギリスから英独海軍協定の締結を取り付け[49]、ラインラントへの進軍と再軍備[50]が上手くいった。こうして「『平和のうちにヴェルサイユ体制を切り崩し、ドイツが他の欧州列強と対等の国になれた、強いドイツを取り戻した』と多くの国民が感じた」[51]。こうしてヒトラーは「外交の天才」と呼ばれ、不動のカリスマとなった。

上記の内政と外交の「偉業」とその宣伝戦略が国民の多くに「あの頃は上手くいっていた」と評価する要因だと思われる。

話は少しそれるが、こうしたナチの権力構造の特徴が本章で取り上げられている。その権力構造は単純な上意下達のピラミッド構造ではなかったというのがある。そのように見えるプロパガンダ戦略はあったが、実際には多頭支配(ポリクラシー)であった。それはヒトラーのもとで互いに競合し、時に反目しあう多数のサブリーダーによる多頭的支配として捉えられる[52]、というのが近年の歴史学の評価だ。

 このジャングルのように入り組んだ権力構造は本章においてよりも次章以降の問題、つまりホロコーストに深く結びついているように思われる。

 

4、第六~七章 ナチ体制下の内政と外交

 第六章、第七章では戦時期における「ホロコースト」と呼ばれるユダヤ人大虐殺、国家的メガ犯罪が行われたその歴史的背景の検討である。それはレイシズム反ユダヤ主義、優生思想の発展とともにあった。

 第六章では、戦前までのレイシズム反ユダヤ主義、優生思想の発展を検討する。ホロコースト[53]は、「火事や惨事を意味する普通名詞として英語圏で使われていたが、一九七八年に、女優メリル・ストリープが主演を務めた~ドラマ『ホロコースト』が全米で反響を呼び、西ドイツでも好評を博したことから~世界中で使われるようになった」[54]。その犠牲者はユダヤ人約559万6000人でポーランドが最も多くの犠牲者がでた。その人数は約290~300万人だ。ドイツのユダヤ人は約50万3000人(人口の0.76%)いたがその内13万5000人が犠牲になった。ユダヤ人だけが犠牲者となったわけではない、民族共同体の理念・規範にあわないとされた心身障害者、不治の病にある患者、同性愛者なども犠牲となった。特に彼らは開戦直前に始まった「安楽死殺害政策」によって、ドイツ国内で少なくとも21万6000人、ポーランドソ連などヨーロッパ全体では約30万人が犠牲となった[55]といわれる。この「安楽死殺害政策」はその後、ホロコーストを実行していく人材を技術的にも精神的にも育成することになった。

 ホロコーストの背景には三つの考え方があった。それはレイシズム、優生思想、反ユダヤ主義だ。レイシズムとは、人種主義とも訳され「人間を生物学的特徴や遺伝学的特性によっていくつもの種に区分し、それらの種の間に生来的な優劣の差があるとする考え方で、そうした偏見に基づく観念、言説、行動、政策等を意味する」[56]。この考えは19世紀後半に進化論や人類遺伝学から知的養分を得て[57]発展し、世界各地に広がった。その中でアーリア人種が白人種の最上位であり、他の人種と交われば衰退していくという神話がアルチュュール・ド・ゴビノーの『人種平等論』によってフランス、ドイツで広く受け入れられた[58]。この人種の概念を民族意識の高揚に役立てようとしたスチュアート・チェンバレンは、ドイツ民族がアーリア人種の理想を体現する民族だとした。「こうしてアーリア人種はドイツ民族と同義語となり、レイシズムはドイツ・ナショナリズムの中心的な統合機能を果たすようになった」[59]

 では、優生学とは何か?優生学も19世紀に発展した進化論や遺伝学の成果に多くを負っている。これは人間の遺伝的劣化を防ぎ、優れた遺伝形質を保護しようとする学問で、ドイツでは「人種衛生学」という名称で成立した。この学問を創設したアルフレート・プレッツは常習犯罪者や精神障害者に関心を寄せ、彼らを劣等遺伝子の保有者あるいは突然変異とみなした。「そして劣等遺伝子を増やさないよう、国家による断種政策の断行を求めた」[60]。こうした人種衛生学の発展の背景には、第一次世界大戦で約200万人の青年男子を失い、いかにして優れた人間をつくるかという問いが国家的な課題となっていたという事がある。

 ヒトラー反ユダヤ主義は、宗教的見地ではなく人種的な反ユダヤ[61]主義だったといわれる。ユダヤ人とはユダヤ教を信じる人々であり長くキリスト教世界から迫害されてきた。しかし、18世紀の啓蒙思想の発展、信仰の自由が認められていき、世俗化したり、キリスト教に改宗したりするものもでてきた。それに対してユダヤ人の解放を撤回せよと論陣を張った人々が、宗教ではなく人種の問題だと主張し始めた。それは「反セム主義」と呼ばれるもので、ユダヤ人=セム人種として人種的に劣った人たちだとした。彼らが世俗化し、人種の違いをごまかし、アーリア人種と混交し衰退させていく。そのような危険な陰謀があるとされた。

反ユダヤ主義[62]はこの問題を解決するためにはユダヤ人を国外に追放するしかないと考えた。その考えは「ユダヤ人問題の領域的解決」と呼ばれ、後にナチ時代のユダヤ人政策に登場するようになった。こうした動きに対してユダヤ人の中では自分たちを一つの民族として認識し、国家を建設しようとした。これをシオニズムという。しかし世界各地に住んでいるユダヤ人は信仰のかたちも住んでいる国への考え方も違う、ドイツのユダヤ人はドイツ帝国に対する忠誠心も厚く、第一次世界大戦時に多くの志願兵が集まった[63]ヒトラーの考える反ユダヤ主義というのはこの人種的見地からの反ユダヤ主義だ。ヒトラー自身、友人や戦時中の上官はユダヤ人であった。その考えを確固としたのは第一次大戦後、「教育将校」として反ユダヤ主義の論客たちから熱心に学び、教えていた頃[64]だ。やはりヒトラー30歳の頃である。

政権に就いたヒトラー反ユダヤ主義の観点から反ユダヤ律法を制定する、その一つが職業官吏再建法であり、これによって公職からユダヤ人を追放した。ヒトラーは人種的観点から国民統合をする、アーリア人種による民族共同体の創設を目指していた。その為の法律が「ニュルンベルク人種法」と呼ばれるものだ。ここでユダヤ人は「四名の祖父母のうち人種的完全ユダヤ人が三名以上いる者」[65]とされた。では、完全ユダヤ人とは何だろうか、結局それは人種的観点からは決められず、その人物がユダヤ信仰共同体に帰属するかどうかで決まった。「ユダヤ人を人種として捉えるといいながら、宗教的帰属が決定的要因になるという論理矛盾をはらむ定義となった」[66]

ヒトラーは当初、ドイツからユダヤ人を追放し「ユダヤ人なき国」の実現を目標としていた。そうしてユダヤ人を追放したがっていたのは、第一次世界大戦のドイツの敗因を国内ユダヤ人の「裏切り」と、ユダヤ人の本性を見抜けなかった旧ドイツ帝国の「無能さ」に求めていたからだった[67]。そうした点ではシオニストと利害は一致していた。政府はユダヤ人国外移住政策を立法と行政手続きによって、その実現を目指していた。しかし、実際に実行できたのはドイツ全人口のユダヤ人約50万3000人のうち、1937年までに12~13万にすぎなかった。その理由は、迫害が長続きしないだろうという楽観的予測、逼迫していた経済事情、ドイツ人としての愛国心、移住先での就業・生活設計の不安、外国の受け入れ制限[68]などである。進まない移住政策の一方で「帝国水晶の夜」事件が起きる。この事件は、ドイツ人外交官へのユダヤ人の銃撃事件、これに対する報復措置としてドイツ全土のシナゴーグユダヤ人商店・企業・事務所・学校等が一斉に襲撃、放火されたものだ。その後、約3万人のユダヤ人が強制収容所に連行され、ユダヤ人はあらゆる財産を取り上げられる事となった[69]

国家的な暴力が横行する中、ドイツ人はなぜ声を上げなかったのだろうか。それは外交上の成功に対して多少の内政上の後退はしょうがない[70]とする考えがあったからだ。「外交的成功こそ、ヒトラー人気の源泉だった」[71]というほどに、国民の大多数は外の派手な成果を受け入れていた。また、ユダヤ人は人口の1パーセントに満たない少数派であり、大多数のドイツ人にとってさほど大きな問題ではなかったという面もある。さらに、ヒトラー政権下の国民はユダヤ人の追放から利益も得ていた。職のポストや追放される住居などを割り当てられたからだ。こうした共犯関係とともに「ユダヤ人なきドイツ」という目標は達成されると考えられていた。

第7章では、争戦時下でのナチの政策、特にホロコーストと絶滅政策と呼ばれる一連の国家的メガ犯罪と本書で称されるものの実行に至るまでの過程とその帰結を見る。

その前に第二次世界大戦勃発のきっかけに関して振り返ろう。第二次世界大戦の直接のきっかけは1939年4月、不可侵条約を破り、ドイツはポーランドに侵攻する。これはヒトラーが1937年に作成した戦争遂行計画の延長線上にあった。ヒトラーはドイツ民族の「生空間」を武力で獲得するしかないと考えていた。その標的はオーストリアチェコスロヴァキアだった。それらの併合は国際社会の黙認の下、軍事力とともに実行された。そういう点では戦争はすでに始まっていたとも言える。ポーランドに侵攻する直前に始めてイギリスが対抗した事は全ヨーロッパへの開戦のきっかけとなったとも言える[72]

 こうして始まった第二次世界大戦ユダヤ人の排除、アーリア人の優位な社会という考えが初めから組み込まれていた。アーリア人優生の社会を体現する存在として頭角を現した親衛隊[73]は、戦前戦時を通してこのホロコーストの実行部隊として重要な役割を果たす。警察機構と親衛隊の結びつきはヒムラーの手によってなされる。彼は各州ごとに分権されていた警察組織の長官職を束ね、全国警察長官の地位と権限を手に入れ、親衛隊を「国家の中の国家」と呼ばれるほどの強力な権力集団に仕立て上げる[74]。彼が1937年に実行した「一斉キャンペーン」は全国で1万5000人もの人々が拘束された、彼らは「共同体異分子」[75]と呼ばれ、アーリア人の純然たる民族共同体の実現にそぐわないとされた人々だった。「このキャンペーンに関する世間の評判は、街角からあやしげな連中がいなくなって安心した、治安がよくなってよかった、と概して好評だった」[76]。優生思想に基づく法律は「遺伝病子孫予防法」と呼ばれる強制断種法が施行され、「ナチ体制下で約40万人もの人々が、本人の意思とは無関係に子どもをつくる権利を剥奪された」[77]

 こうした状況下で1939年8月「安楽死殺害政策」が行われる。この直接のきっかけは重度の精神障害児をもつある父親が総統官房にあてた「尊厳死」の許可を願い出た1通の手紙だった。とはいえ、もともとナチ・ドイツが追求していた「人間の価値を恣意的に計り、『優秀な者』『役に立つ』だけの社会」[78]が引き起こした国家的メガ犯罪である。この政策はヒトラーの私文書によってその実行が保証された。公文書ではなく私文書であり、ヒトラーは証拠が残ると後で問題になりそうな重要案件の決定は口頭で行った。文書に記載される時は、極秘扱いのうえ、数々の隠語が用いられた[79]

 安楽死殺害政策は「障害者の絶滅政策」とも言える。ここでは薬やガスでの殺害が組織的に医療行為[80]として実行された。これに携わった医師、看護師、衛生士ら専門家集団が、後に停滞するユダヤ人移住政策と合流するのだ。第二次世界大戦が始まり、ドイツは占領地を増やしていった。同時に支配地域のユダヤ人も増えていき、その地域は国内外のドイツ系住民への入植地となった[81]。増えていくユダヤ人の追放先は1940年、英仏軍に対する勝利、パリ陥落の達成によって仏領マダガスカルとなるかと思われた。しかし、イギリスとの講和によって制海権を得られなければこの計画は実行できなかった。結局、イギリスの徹底抗戦にあい、この計画を実行することはできなかった。こうして「行き場を失ったユダヤ人を一時的に拘留するゲットーの建設が始まった」[82]。移住政策の行き詰まりは「問題の解決を先送りした」[83]事にしかならなかった。

 ホロコーストの始まりは、1941年に始まる独ソ戦の最中であった。占領地の治安対策を担う親衛隊が指導者的ユダヤ人のみの殺害という命令を無視して、女性と子供を含むすべてのユダヤ人を射殺し始めたのだ。こうして独ソ戦開戦後半年で50万人以上のユダヤ人が殺された。停滞し、長期化する戦争の中ユダヤ人を東方へ追放しようという目論見にはリアリティがなくなっていた。ゲットーの生活環境は悪化し、現場の指揮官レヴェルでは「役立たずの大食らいを処分する」方策が検討され始めた。その解決手段として「人道的」なガス殺が選択肢としてあがった[84]。このような状況下で、国家公安部長ハイドリヒは1941年7月末「ユダヤ人問題の最終解決を実行するための組織的・実務的・物質的な準備措置に関する全体計画」を求められた。

 一方ヒトラーユダヤ人をアメリカに対する「人質」としての価値があると考えていたが、1941年12月の対米開戦を期にその価値もなくなった。1942年1月ハイドリヒは「ヴァンゼー会議」にて「ユダヤ人問題の最終解決」を主題とし、その方針を発表。一気にホロコーストは加速する。

 ヴァンゼー会議以前[85]からユダヤ人の政策は追放から絶滅へと変わっていた。そのため主にユダヤ人を殺害するための施設が建設された。これを絶滅収容所と呼び、ヘウゼム、ベウゼツ、ソビブル、トレブリンカ、マイダネク、アウシュビッツの6施設があった。その内「ラインハルト作戦」と呼ばれるユダヤ人殺害政策の為に建設されたのはベウゼツ、ソビブル、トレブリンカの3施設であった。一方でマイダネク、アウシュビッツは戦線拡大とともに増える捕虜収容所、政治犯収容所として建設され次第にガス室を備える絶滅収容所となっていった。その中でも有名なのは、ポーランドの古都クラクフから南西に約60kmに位置するアウシュビッツ・ビルケナウ絶滅収容所だ。ここはもともとポーランド軍の兵舎として使われていたが、1940年夏にドイツの進軍とともにポーランド政治犯を収容する施設が設置された。もともと小さな収容所だったのが、ガス室を伴う巨大な収容所に変貌したのは二つの要因がある。一つは近くにドイツを代表する化学コンツェルンのIGファルベン社が合成ゴムの工場を建設した為である。この工場建設、工場稼働の為の安い労働力を提供する施設として巨大化していった。格安の労働力を利用できるため周辺にはクルップ社、シーメンス社など数多くの企業が工場を設置した。もう一つは独ソ戦の開戦だ。ソ連からの大量の捕虜を見込んでの施設の収容能力の増強を図ったためだ。1942年2月、ヴァンゼー会議の後ユダヤ人が初めて移送されてきた。当初、農家を改造しガス室が用いられていたが、専門の施設「クレマトリウム(死の工場)」が稼働するようになる。これは民間企業が受注し最新の技術によって完成させられた。ここでの犠牲者総数は約110万人[86]に上った。

 ヒトラーの人気はパリ陥落のときにピークを迎える、外交の天才、軍事の天才と称されカリスマとして君臨していた。しかし戦線を拡大し、対米開戦を行い、自ら陸軍司令官の任に就くなど、その限界を迎えていた。形勢の逆転が決定づけられたのは1943年2月のスターリングラードの敗北だった。ドイツ第6軍は赤軍に包囲され、降伏した。同年、北アフリカ戦線での敗北、1944年6月連合軍のノルマンディー上陸作戦の成功など、ドイツの敗北は決定的になった[87]

こうした無謀な戦争を続けるヒトラーに対する軍部内での不満は高まっていき、1944年7月20日、陸軍高級将校たちはヒトラー暗殺計画を実行した。しかしヒトラーは負傷しただけで、計画は失敗に終わった[88]。その一方、民族共同体の成果である若者たちは国土防衛に身を投じ、多くが犠牲になった。ヒトラーは1945年4月30日、ベルリンがソ連軍に包囲される中、自殺した。

 筆者はホロコーストのような殺害政策に関して、「ヒトラーがそれを望んだからだ」という部分を強調している。なぜならドイツ社会にはユダヤ人を追放することの合意はあったが殺害への合意はなかったからだ。ホロコーストの犠牲者のピークは1942~43年だが、戦争末期でさえホロコーストのような非合理な政策への資源の投入がなされたのはヒトラーがそこまでして絶滅させたかったからだと述べている。第二次世界大戦ヒトラーにとって、「国家間」ではなく「人種間」の戦争だった。ドイツを苦しめているのはユダヤ人だと信じて疑わなかった。彼にはドイツを「救済」するという使命感があり、それは最後の遺言にまで託されていた。本書はその遺言[89]をもって締めくくられている。

 

三、感想

 本書を最初に読んだのは2016年の年末だった。本書の「おわりに」にあるように、私も筆者が出演していたラジオ番組を聞き番組の内容が面白く勉強になったため、執筆された本もちゃんと読んでおこうと思い本書を手にとった。2017年夏、福田先生と一緒に『戦争のはらわた』を見た、これは第二次世界大戦下のドイツ軍の話だった。その映画の最後、エンドクレジットに出てくるブレヒトの文句が印象的だった。以下、パンフレットからの抜粋。「きみたち、あいつ(ヒトラー)の敗北を喜ぶな。世界は立ち上がり、あのろくでなしを阻止したが、奴を産んだ雌にまたさかりがついている」。

 そして今回の直接の契機は2017年12月に公開し、ユダヤ歴史学者歴史修正主義者との裁判闘争を描いた『否定と肯定』を見たことだ。もう一度、この本を読み、この時代に起きたことを勉強したいと思い、今回こうした機会を設けさせていただいた。本書を再度読んでいて感じたことは、この数年で日本に起きたことともリンクしてしまう現代性だった。例えば、2016年夏に起きた相模原障害者連続殺傷事件、今年1月からニュースになっている旧優生保護法下での本人の同意を得ないで実行されていた断種政策、ホロコーストにも慰安婦問題にもみられる歴史修正主義の問題、麻生財務相が2013年及び2017年にヒトラーを例示した発言などである。

 本書はナチ時代及びヒトラーに関して非常にコンパクトにまとまっている為、まとめきれずに本レジュメは膨大な量となってしまった。個人的には1章と5~7章が印象に残っているのだが、それは事の始まりとその結果だからだと思う。その間のプロセスこそが今の時代にも教訓となる、学びになる部分だとも思うと省略する部分を見出すことが非常に難しくなってしまった。

映画『否定と肯定』では、歴史修正主義者のアーヴィングは実際の歴史の複雑さから自分にとって有利な、見たい「証拠」だけを抽出し、自身の主張を差別主義者という特定のコミュニティでの地位を確保するために利用していた。また、それを求める大衆もいた。ホロコーストという国家的メガ犯罪に至る過程は本書276頁にあるように「長い、幾重にも曲がりくねった道」であった。一方、映画では実に簡単にそれを否定していたのが印象的だった、「穴が無ければホロコーストも無い」というアーヴィングの法廷での発言だ。歴史の中の事件というのは複雑な過程を経て起こっている。だから事件の背後への想像力が必要だと思う。同時に、想像力というのは、それに似た疑似的な体験をしなければ中々養えない力だとも思う。だからこそ、疑似的な体験をする上で映画や本という装置は重要であり、今後もこうした本や映画を通じて皆さんと語ることができればと思う。

 

[1] 本書5頁引用。

[2] 「庶民の出で~学問を修めたわけでも、職業や資格を身に着けていたわけでも、特定の業界や利益団体を代表する立場にあったわけでもなかった。それどころか、ヒンデンブルクと選挙で大統領のポストを争う1932年まで、ドイツ国籍さえもっていなかった」。(本書21~22頁引用)

[3] 本書24頁引用。

[4] 本書冒頭に地図とともに描かれているが、当時のバイエルン州は面積・人口ともにヴァイマル共和国内第2位の州であり、オーストリアと国境を接していた。プロイセン州(州都はベルリン)が圧倒的に大きく、ナチ党の台頭は地方からプロイセンへ如何にして、その支持層を拡大するかが課題であった。ヒトラーが政権をとったナチ時代においては、地方の独立した権限を剥奪し、連邦制度から中央集権国家へと変貌していくことになる。

[5] 「過酷な塹壕戦の中で生じた無二の戦友愛と自己犠牲。階級や身分、出身地を超えて堅く結びついく兵士の勇敢な戦い」(本書26頁引用)が実際にはそれを経験していないヒトラーの矛盾という形で本書の指摘はあるように思われる。しかし、実際に経験していないからこその「民族共同体」という幻想を生み出すことが可能とも考えられる。つまり、「戦争を経験していないからこそ戦争を美化する(できる)」という現代にも見られる現象に似ている気がする。

[6] 本書32頁引用。

[7] 敗戦の原因は「ユダヤ人」や「共産主義者」等の反愛国主義者によって後ろから刺された為だ、これはこの後一貫して続くヒトラー及びナチ党のプロパガンダ戦略である。資本主義的な矛盾を指摘する場合にも、それは「ユダヤ的資本主義」ということになり、労働者層には上層のユダヤ人を批判の対象とし、一方で上層の保守派に対してはプロイセン帝国という伝統の復活を取り戻すという戦略をとっている。こうしたナチ党の全階層への選挙戦略は101~102頁に詳しい。

[8] 本書33頁引用。

[9] 軍の経費を使ったポスターやビラの製作から、人気の「教育将校」を見ようとする将兵の参加、上官たちの紹介による軍の大物や地元の名士との知己を得るといった事等である。(本書43~42頁参照)

[10] 二五カ条綱領の中には、ドイツ民族の自決権の行使と領土の獲得などヴェルサイユ講和条約への反発や、不労所得の廃止、利子奴隷制の打破、健全な中間層の創設・維持、土地投機の防止など「社会主義」的なものもあるが、他政党との決定的な差異はユダヤ人の公民権の剥奪など、「宗教的な差異に基づく反ユダヤ主義を超える新たなレイシスト運動であること」(本書40頁引用)が示されている点だ。本書83頁においてはヒトラーが再び実権を握る際にもこの綱領論争がでてくる。

[11]ヴェルサイユ条約の軍備制限を逃れるために軍は大量の武器弾薬庫を隠匿していたが、レームは軍人としてそれを扱える立場にあった。そこから『機関銃王』の異名を得ていた」(本書48頁引用)とある。

[12] 本書65~66頁参照。

[13] 本書69~70頁参照。

[14] ①はミュンヒェン一揆の失敗によるものだ、また各種手当や特権が議員にはあるという面もある。

[15] ②はヒトラーのカリスマ的支配による根本的な部分であり、党の理念がヒトラー自身と重ねられるべきだったからだ。

[16] ③はミュンヒェン一揆の時に有力保守政治家であるカールに裏切られた事からきている。

[17] 本書89~90頁参照。以下の箇所は印象的だったため引用する。

「ベルリンは魚が水を欲するようにセンセーションを求めている」。

[18] 本書93頁引用、「1928年5月の国会選挙は、ヒトラーの期待に反する結果となった」。

[19] 本書97頁参照。弁士養成学校において約6000人の全国弁士の育成を果たすのに通信教育が使われていた事が興味深い。別の議論になるが、D.グレーバーは著書『官僚制のユートピア以文社酒井隆史訳)』にて近代化と官僚制の発展における一つの頂点として19世紀ドイツの郵便事業を取り上げている。

[20] 本書104頁参照。

[21] 本書115~116頁参照。

[22] 本書118頁参照。

[23] 本書121頁引用、「大統領緊急令とは~大統領大権のひとつだ。『公共の秩序と安寧』が著しく脅かされるなど国家が危急の事態に陥った場合、大統領はその事態を克服するために『必要な措置を講ずる』ことができた」。

[24] 本書122頁参照、国会の会期日数の減少が取り上げられている。

[25] 本書129頁参照。

[26] 本書131頁参照。

[27] 本書137頁参照。「救済」という、その使命感は後のヒトラーの遺言にも表れている。

[28] 本書139~140頁参照。

[29] 本書144頁参照。

[30] 議事堂炎上令が有名だ。1933年2月27日何者かによって放火された国会議事堂は現場にいたオランダ人の共産主義者のせいにされ、それを共産党の国家転覆との陰謀だと決めつけた政府は非常事態宣言を発令する。その結果、急伸左翼運動の指導者は一網打尽にされ、この法令は1945年まで効力を発揮した。(本書147~148頁参照)

[31] 本書153頁参照。

[32] 本書155頁参照。

[33] 本書159頁参照。

[34] 本書161~163頁参照。

[35] 本書168頁参照。本書174~175頁では、「一九三三年夏から秋にかけてかなり確かなものになっていった」とある。また「公的な場で右手を斜め前に挙げて『ハイル・ヒトラー』(ヒトラー万歳)と叫ぶ挨拶や、公文書の末尾にも同様のフレーズを書き添える規則も、この時期に定められた」とある。

[36] 本書179頁参照。

[37] 本書184~185頁参照。後に親衛隊のトップに立ち、ユダヤ人虐殺計画の責任者でもあるラインハルト・ハイドリヒの暗殺計画を題材にした小説『HHhH(ローラン・ビネ著、高橋啓訳、東京創元社)』においてこの事件に関する部分が52~56頁にかけて続く。本書内のセリフは全て記録された物を用いているのだが、それを著者の友人が創作ではないかと疑う部分がある。非常に生々しいシーンであり、官僚的に殺人を行っていくさまが印象的である。

[38] 本書186頁参照。

[39] 本書190~191頁参照。「ナチ時代の前半は~ドイツ現代史の中でとくに評価の難しい時期だ」と指摘している。「戦後~の住民意識調査では~『あの頃ドイツはうまくいっていた』『比較的よい時代だった』という声があった」。そのような意識を取り上げている。

[40] 本書211~212頁参照。

[41] 「失業者に占める女性の割合は全国平均で二〇パーセント、ベルリンでは二九パーセントに達したから、この制度の効果はてきめんに表れた」。(本書212頁引用)

[42] 本書214頁参照。

[43] 本書218頁参照。

[44] 本書221頁参照。

[45] 本書225頁参照。

[46] 本書228~229頁参照。

[47] 本書231~233頁参照。

[48] 本書238~239頁参照。

[49] 本書240~242頁参照。

[50] 本書243~244頁参照。

[51] 本書244頁引用。

[52] 本書201~202頁参照。「ナチ党には~一元的な党の意思決定機関は、結局、誕生しなかった。これはナチ体制の特徴である」と指摘している。

[53] 本書254頁より、ホロコーストは、ナチ・ドイツによるユダヤ人大虐殺を表す言葉である。

[54] 本書254頁引用。

[55] 本書255~256頁参照。「ナチスドイツと障害者『安楽死』計画(新装版、ヒューG,ギャラファー著、長瀬修訳、現代書館)」はT4計画と呼ばれるこの政策に関する研究書だ。序論の印象的な部分を引用する。「大多数の医者はナチス党員ではなかった。計画を強力に支持した有力な参加者はドイツの指導的立場にあり、国際的にも定評ある医学教授や精神病理学の権威だった(11頁)」。そうした政策が推進された背景にある考えを本書では以下のように指摘している。「『進歩』の追求は集団殺人を正当化できるとする機械論的信仰である~人類を完璧にするためには殺人も許されるという絶えることのない思考であり、おごり高ぶった専門職集団が他人の権利、生命への干渉を歓迎したことである(14頁)」として、その普遍的な危険性を訴えている。本書は2016年に起こった相模原障害者施設殺傷事件を機に再版された。「T4計画が優生政策の極端な形として現れた社会背景と今回の事件の背景(役に立たないものは生きている価値はないという経済効率主義)は似通っている」と出版社からのコメントがある。

[56] 本書257頁引用。

[57] 本書257頁参照。

[58] 本書257~258頁参照。

[59] 本書259頁引用。

[60] 本書260頁引用、日本においても旧優生保護法(1948~96年)下で精神疾患などを理由に不妊手術が本人の同意なく繰り返されていた事が発覚し、2018年1月末頃から大きなニュースとなっている。

[61] ユダヤ人がいるのならば、キリスト人やイスラム人という事も成り立たなければならないが、そこには違和感を覚える。この違和感が何か、後に露呈する。

[62] 本書263頁参照、パウル・ド・ラガルドの著作『ドイツ論』にてポーランド、ロシア、オーストリアルーマニアユダヤ人をマダガスカル島へ移住させる可能性を示唆している。

[63] 本書265頁参照。

[64] 本書268頁参照。

[65] 本書277頁引用。

[66] 本書277頁引用。

[67] 本書278頁参照。

[68] 本書284頁参照。米、英、仏、オーストラリアなど諸外国の受け入れ態勢も消極的であった。

[69] 本書285~288頁参照。

[70] 本書289頁参照。

[71] 本書290頁引用。

[72] 本書248~250頁参照。

[73] 本書297~299頁参照、もともとヒトラー個人を守る身辺警護半として発足し、突撃隊の小さな下部組織に過ぎなかったが、次第に「党内政治警察」の役割を担うようになる。さらにレーム事件の後、突撃隊の代わりに強大な権力組織へと台頭していく。

[74] 本書298~299頁参照。

[75] 本書300頁参照、流浪の民とみなされたロマ、定職に就かず規律に従わないとみなされた労働忌避者、民族共同体の健全な発展に寄与できないとされた同性愛者らだ。その他にも「反社会的分子」として街頭を徘徊する物乞い、ホームレス、非行少年なども「予防拘禁」され、強制収容所に連行された。

[76] 本書301頁引用。

[77] 本書303頁参照。

[78] 本書305頁参照。

[79] 本書306頁参照、映画『否定と肯定』においてホロコースト否定論者のデヴィット・アーヴィングが「ヒトラーの命令書を提示してみろ」と講義中のユダヤ歴史学者、デボラ.E.リップシュタットを挑発した時に、反論できなかった、もしくは反論しなかったのはこうした複雑な経緯があるからだった。

[80] 「『最終的な医学的援助』である殺人は医学的な処置であり、医者の権威と監視下でのみ可能だった」。(21頁)「ナチスドイツと障害者『安楽死』計画(新装版、ヒューG,ギャラファー著、長瀬修訳、現代書館)」

[81] 本書313~314頁参照。

[82] 本書318頁参照。

[83] 本書319頁引用。

[84] 本書320~321参照。

[85] 本書322頁引用、「すでにホロコーストは始まっていた。四一年の晩夏から初冬のどこかの時点で、ヒトラーは、ヒムラー、ハイドリヒに対して、既に現実のものとなったユダヤ人政策の転換を、すなわちホロコーストの始まりに承認を与え、これを加速させたのだった」。

[86] 本書336頁参照。

[87] 本書339~340頁参照。

[88] 本書341頁参照。

[89] 本書346頁引用、「ユダヤという腫瘍は私が切り取った―他の腫瘍のように。未来は我らに永遠の感謝をわすれないであろう」。

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 今回の内容は以上となります。

また次回お会いしましょう。